最近の若者は問題
「最近の若者は」という文句が古代エジプトの粘土板にも確認される。というのはデマのようだが、思わず信じそうになる説得力を持っている。
新しいテクノロジーや言語に対する、老人(というか中年以降か)の抵抗感には豊富な事例がある。
ストーブが初めて登場した時。家庭の中心となり家を温める暖炉の火と違い、ストーブの火は邪悪で、人を鬱屈した気分にさせ、悪に走らせるものだと考えられた。
ガスレンジが初めて登場した時。ガスが食品の味を悪くし、毒を含ませると考えられた。
電子レンジは放射線を発生させるから危険だと考えられた。実際には暖炉で石炭を燃やした方が、フライアッシュで放射線が拡散されるのだが。
消毒法が考案された時もそうだし、TVゲームもそうだし、車もそうだしインターネットも……抵抗、反対にあったものは枚挙にいとまがない。
だがある一定以上生き残ると、次第にそれを受容する人間の比率が増え、やがて市民権を獲得する。
たとえば「素敵」という言葉。この言葉は今でこそ、純文学の文中にも普通に用いられる。だが、語源は「素晴らしい」と「~的である」の二つを掛け合わせた、いわば「イケてる」と「メンズ」でイケメンのような、俗語であったようである。江戸時代の若いお姉ちゃんが使い、大人から「昨今の日本語の崩壊ぶりは目に余る」とか言われていたのかもしれない。
言葉にせよテクノロジーにせよ、ある程度の抵抗を受けてなお生き残ったものは、やはり有用なのだろう。
ということは、この抵抗感は、有用な文化を選り分けるふるいの役割を果たしているとも言える。
進取の精神に富む若者、保守的な老人の二大政党制で、新技術の採用不採用を決める会議を行っていると考えてもいい。
集団で生きる種であり、年齢層が多岐にわたる人類に適した意思決定機構である。実際、無用、あるいは危険なテクノロジーがこの会議によって歴史のどこかに消えていくことで、人類が危機を脱していたのかもしれない。
ただ、この機構には問題がある。少子高齢化によって、二大政党のパワーバランスが激変してしまうことだ。若者が少数になりすぎれば、新しいテクノロジーが人類に採用される可能性は下がり、それは結果として人類の発展を阻害するかもしれない。
それは種の老化と表現しうるだろう。