ある作家のメモ

自分用メモ

病気を治すということ

僕は持病をずっと抱えている。あまりにも昔から病気続きだったため、病気に対する考え方も少し人と違う気がする。

 

病気で一番辛いのは、薬を塗っている時だった。

 

薬を塗らなくてはならない、それはつまり自分が薬なしには一般人にもなれない存在だ、という証明である。医学のもたらした福音であるはずの薬は、僕には劣等感の具現に他ならず、塗り付けている時には歯を食いしばっていたものだ。

 

病気の症状そのものも辛いのだが、それはあまりに長く罹患していたので当たり前になっていた。もちろん、慢性疾患に近いものだったからそんな捉え方ができたのだろうけれど。

 

また、病気が治りそうになった時、僕は不安を抱いた。

 

病気があまりにも人生に根付いていたために、それを失うことがアイデンティティの喪失にも感じられたからだ。実はこれは、今でも悩み続けている。治すべきか、このままにしておくべきか。治れば楽になるのだけれど、何か大切なものを失う気がする。ひょっとしたら、小説も書けなくなるかもしれない。僕にとって真剣な問題だ。

 

病気は治ればいいというものではない。薬を出してそれで全てが解決するというものでもない。

 

古き時代の西洋世界。パスツールが微生物を発見し、病気の原因を解き明かしていく時代よりずっと前。病気とは罪の現れと解釈されていた。

 

過去に何か悪いことをしたから、今病気で苦しんでいる、というわけだ。それは泥棒かもしれないし、不倫かもしれないし、ちょっとした嘘かもしれない。全く心当たりがない人などいないだろう。病気で伏せること、病気の家族を持つことは、負い目であった。症状以上に辛い出来事だった。

 

そんな時、病人の家を訪問し、症状を確認したのち「汝の罪は許された」と言う人がいた。イエス・キリストである。

 

僕は、キリストは医者だったのではないかと思う。今の概念で言えば。

 

患者は感激し、涙ながらに礼を言った。その言葉で元気づけられ、本当に治癒する人もいただろう。罪悪感や、劣等感といった心の何かを取り払わねば、人は本当に治りはしない。

 

病気を治すということは、病気を治すということだけでは完遂されない。そう僕は思う。