ある作家のメモ

自分用メモ

死凍海にて

これは僕が、一人で旅していた時の話だ。
現地語でツツヌルリレ、日本語に直すなら死凍海と呼ばれる海域があった。

 

言葉の通りそこは極寒の風と極端な低気圧が支配する領域で、危険が大きいわりに大した魚も捕れないらしく、現地の人は誰も足を踏み入れようとはしなかった。

 

だから僕は海図を説明してくれた男には知らせず、昼食を摂ったのち、一人死凍海へと漕ぎだした。

 

水の色は真っ黒である。見上げると曇天、しかし雲の凹凸は凄まじい速さで流れていく。上空の風が強いのだ。

 

僕の小舟はみるみるうちに岸から遠ざかり、あっという間に周囲に陸地は見えなくなった。

 

時折青白い氷山が浮かぶだけの、黒い海。横断すれば次の目的地へのかなりの近道になるはずだったが、中途で沈没したとしても誰も助けには来ないだろう。

 

一切の人工物の見えない、うねりを上げる黒と灰色にサンドイッチされた世界。黒い波が逆巻けば、灰色の雲が少し押しやられる。逆もしかり。それが延々と続く。僕がここを訪れる前から、僕がここから消え去ってもずっと。

 

今僕が小舟から身を投げ、血液まで凍り付いて海底に沈んでも、それは誰にも知られない。それは果たして死になるのだろうか。誰も、僕すら、僕が死んだことを知らなければ、僕は生き続けるのではないか。ここは世界とは切り離された、時空を超越した場所なのだから。

 

そんな妄想すら浮かぶ。

 

夕刻、海も空も金色に輝くほんの一瞬の時間が過ぎ去ると、漆黒の闇があたりを支配した。僕は氷山の陰に小舟を止め、錨を下ろした。巨大な三日月形の氷山は小さな湾の役割を果たし、一晩休むのにちょうど良い。

 

現世から取り残されたような気分で、僕は眠りに落ちた。船の揺れに身を任せることは、昼に見た黒と灰色の境界線に溶け込むようで、それは悪くなく、このまま目を覚まさなくても良いと思えた。

 

光を感じ、深い眠りから目覚める。鳥の声もなく、蟲の気配もない。無音だった。
起き上がって甲板に出て、僕は目を疑った。

 

あたりは青い。嘘のように青い光が、天上から降り注いでいる。


水平線まで鏡面のように凪いだ死凍海が、紺碧に光り輝いている。海の底のようだ。水は澄んでいて、氷山の底部がはっきりと見えた。氷山は浮力と自重の完璧なバランスで、微動だにせずそこに浮かんでいる。時が止まったように美しい。

 

僕は理解した。

 

僕たちはいくつも積み重なった多層性の海に住んでいて、たまたま肉体の比重にあう海に浮かんでいるだけなのだ。僕の上には下には海があり、その上にもその上にもその下にもその下にも海がある。きっとどの海にもその海ならではの魚が泳いでいて、その魚は今の僕のようにふと、海の境目で思いを馳せもする。

 

ここは海の中なのだ。